「戦友みたいな気持ち」~帝王切開ママたちのリアルな声~
「戦場は違うけど戦友みたい」——これは、先日開催した帝王切開トークで出た言葉です。
同じくお腹に傷を持つ者同士、あの痛み、恐怖、そして“自然分娩信仰”にざらついた経験。語り合ううちに、共感と理解が広がっていきました。
「2度目、3度目の帝王切開の方が怖かった」「VBAC(経腟分娩への挑戦)をしたけれど、また帝王切開になった」など、それぞれの経験は違っても、誰もがその選択の中で葛藤し、工夫し、乗り越えてきたことに変わりはありません。
「お産の進行を伝えてほしいとお願いしたら、『いま頭が出ましたよ』と声をかけてもらえて安心できた」など、自分なりの納得感を得るための工夫をした人もいました。
経験の数だけ、物語がある。けれど、社会の視線はどうでしょうか?
「かわいそう」「ラクでしょ?」——社会のまなざしが生む葛藤
「帝王切開だったんだ」と言うと、返ってくるのは「大変だったね(かわいそうに)」という同情の言葉か、「陣痛を経験してないからラクだったんでしょ?」という決めつけ。
何度もそんな言葉を受けるうちに、自分自身もその視線を内面化してしまうことがあります。
「本当に帝王切開しか選べなかったのか?」「自然分娩できなかった自分はダメなのか?」
そうした疑念に囚われたことが、私自身もありました。
子どもが生後2ヶ月で風邪をひいたときに、「帝王切開だから免疫が弱い」と言われ、自責の念にかられたこともありました。
いまになってみたら、どんなに元気な子でも年間20日は保育園を休むくらい、子どもの風邪はよくあること、と思えます。帝王切開だろうがなかろうが、子どもは病気にかかるよと当時のわたしに伝えたい…笑
帝王切開トークが変えた私たちの視点—語ることの力と次なるステップ
振り返りの場で、多くの参加者が「しんどいお産体験は何度も話して昇華することが大事」と語っていました。
特に印象に残ったのは、こんな声です:
- 「同情されることなく、自分の言葉で話せて良かった」
- 「保護テープなどのマニアックな情報をすぐ共有し合えた」
こうした場の存在が、単なる情報交換ではなく、深い共感を生む「安全なスペース」になっているのだと実感しました。
また、話し合いを通じて、帝王切開の受け止め方には段階があることにも気づきました。
- 違和感や怖さを抱える段階
- 自分の体験として受け入れる段階
- ネガティブなイメージを払拭したい段階
私は今、最後の「ネガティブなイメージを払拭したい段階」にいます。この視点に気づけたのも、他の参加者と語り合ったからでした。
「帝王切開」という言葉、どう思う?
ミーティングでは「帝王切開」という言葉自体についても、議論が交わされました。
- 「“自然分娩”という言葉があるから、“帝王切開”が“不自然”に感じられてしまうのでは?」
- 「“帝王切開”という名称は医療的な響きが強く、母親としての主体性が見えにくい」
私自身も、1人目の出産で破水、陣痛、緊急帝王切開を経験しましたが、それでも「帝王切開」と一言で片付けられることにモヤモヤを抱えていました。
また、ある参加者が「帝王切開の傷跡を“にこちゃんマーク”と呼んでいる」と話してくれました。それを聞いて、「自分の一部として愛着を持つ」姿勢が素敵だなと感じました。
さらに、「切開分娩」という言葉を使うことで、主体性を持った出産という認識が広がる可能性もあるのではないか、という意見もありました。
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